Go for the textile tour

織物の町に行く。山のように積み上げて、作品を見せてくれる。素晴らしいサリーで頭がくらくらする。サンバルプールサリーhttp://en.wikipedia.org/wiki/Sambalpuri_sareeは今のMeera Shankarインド大使が好んで来た着ていたサリーで一躍有名となった。絣織りやイカット織りで非常に日本の絣と近い柄が印象的だ。ところがその絣のほっとするような柄でありながら、非常に品が高く格調がある。そこがなんとも魅力的だった。ブバネシュワールとサンバルプールの間にいくつもいくつも、織物と工芸の町が点在する。そこを車で訪れるのだった。どこの町は素朴で良心的で、観光ずれしていなかった。観光バスがガンガン出て、土産工芸品が売ってるまでにはまだ届いていない。お金が目的ではなくまず美しいものが作りたいと言う、工芸家魂があり、織物の見る目が在ると喜んでどんどんいろんな町の機能を惜しみもなく見せてくれる。英語が通じないのに、機織機の前でいろんな話ができるのだった。ドライバーのラマが英語に訳してくれなくてもなぜかわかるのがとても不思議だった。中間業者と契約している町を覗き、殆どの町で直接作り手から、織物や工芸品が買えた。しかし、彼らは売れればラッキーぐらいの考え方しかないように見えた。私と言う、元テキスタイルをしていた共通のエスプリと、顔が日本人で器用に英語を話し、フランス人の夫を持ち、インドの若者が着るものをまとっている、そのミスマッチ振りを不思議に感じながら、私達は集まる子供たちは、大いに笑い転げ、工芸家たちは大いに楽しんでいるようだった。インドに行くといつものことだが、写真をいっしょに撮らせてくれとか、果てはサインをしてくださいとか、面白いことを頼まれる。彼らは、何事も100パーセント楽しむ。

工芸家たちはそれぞれ店と契約制だから律儀に断るタイプもいれば、どんどん売りに出るタイプ、見せるだけでそれほど買ってくれといわないタイプ、工芸家の名誉たとえば金賞にか輝いた人とかプレジデントになってる人で自分の技術を見せたい人、などなど個性豊かだ。金額が提示された値段はたたけば半額までは落ちるだろうとはおもいながら、ほんの少しだけおまけぐらいにしてくれる段階であっさり買った。私も作るものとしてビジネスマンにはなりたくなかった。どれだけぼられてるか心配ではあったが、自分が欲しい欲望と値段が同じだったら買ってみた。後でサンバルプールの市場にい行って大体のある意味彼らは正直者だったということが分かった。地元サンバルプールのマーケットの値段しか要求しなかった。彼らは自分たちの買い手には私の半分の値段で買い上げられてるのだろう。買い手たちは、彼らが要求した値段でサンバルプールのマーケットで売るのだ。彼らが時々町などに行きその金額を知って、きっと腹を立てているのかもしれない。サンバルプールの市場サンバルプールからマドライのサリー屋にうつればこれのまたその2倍の値段でうられる。つまり、工芸家は私から原価の4倍私からぶんどれたが、地元サンバルプールのマーケットの2倍の値段しか要求しなかった。私は彼らの懐が少し潤ったことは嬉しかった。物を作るということ、インダストリアル化以前は手作りで正当な金額が稼げた。今は手作りは割にはあわない覚悟でやるしかない。それはどこの国でも世界中同じだ。

工芸家といっても村や町それぞれ専門があった。そして不思議なことに、町全体で何か一つのものを作っていると言う町はなく、みなそれぞれの工芸家が独立して作品でも仕上げていると言う趣があった。工芸家を縛る決まりなどなく、ある町など、金持ちの資本家が、大学の研究所のような織物の町を作り、それを工芸家に提供している制度にしていた。だから働く時間も決まっていなく、それぞれが好きな時間に来て仕事をしていた。各自が取引先と契約して買い取り制にしているようであった。この自由さは非常に驚きであった。もうひとつの驚きは、すべてが手仕事であるところだ。日本は織物のすべてをかなりの部分でコンピュータ化したり、機械化していた。それでもまだまだ手でしかできない仕事がある。けれどもオリッサはすべてが、手仕事だった。機織機は手動であった。糸つむぎも、チャクラも、糸染めも、布洗いも、干すのも、生地を巻きつけるのも、すべて手仕事だった。どこもかしこも手仕事で、これはヨーロッパで言えば中世の手仕事の布作りに相当した。ここまで手仕事とは。。。たとえば、10年かけてやっと一つ織れるというタペストリーを見せてもらった。すべて手仕事だった。